岸川美好物語

岸川美好物語 第十六章 大腸ガンとの戦い

大腸がんとの闘い〜生まれて初めての入院生活

妙な予感

平成19年5月、嬉野市より検診の案内が来ました。
勿論今までも来ていたのですが、一度も検診に行った事はありませんでした。
理由は、きっと何か病気があると言われるのが怖く断り続けていました。
そんな私に今回は妻が強引に検診につれて行きました
検診の内容は、呼吸器疾患・消化器疾患・泌尿器疾患などの一般的な検査でした。
検査の結果は、胃に異常があるかもわからないので胃の内視鏡の検査をしてくださいとの通知でした。
ところが、10月開催の盲導犬フェスタの準備でとても忙しく病院に行く時間もなく、11月まで延ばしていました。
そして盲導犬フェスタも無事終わり妻が私に、胃の内視鏡の申し込みをしてよいかと聴きました。
私はしぶしぶ了解しました。
妻は、早速、嬉野市の朝永医院に申し込みの電話を掛けて11月21日の予約をとりました。
妻が電話を掛けている時、私の心に妙な予感がして大腸の検査もしてみようと思い、妻に大腸の検査も申し込んでほしいと言いました
そして、胃の検査の一週間後の11月28日に大腸の内視鏡の予約を取ってもらいました。

大腸の内視鏡検査

11月21日、生まれて初めての胃の内視鏡の検査に行きました。
実は、その二週間前に妻の胃の内視鏡の検査について行き妻の苦痛の様子を見ておりました。妻の胃の内視鏡の検査は、口からカメラを入れての検査でとても苦しそうでした。
私も覚悟を決めて検査に行ったのですが幸い私の時は、カメラを口からではなく鼻から入れて検査をして頂きました。
胃のカメラは、圧倒的に口からより鼻から入れたほうが苦痛が少なく思ったより苦痛が少なくてすみました。
検査の結果は、胃にカイヨウの後があるがそのカイヨウは、すでにもう治っているとの事心配はないとの嬉しい結果でした。
そして、翌週、大腸の内視鏡の検査に行きました。
大腸の検査の場合前日の夜9時以後の飲食はできません。
朝7時に妻に付き添われて朝永医院に行きました。
二階の入院室で、大腸に溜っている便を出す為に2リットルの下剤を2時間で飲みました。
2リットルと言うとかなりの量でとても飲みにくい量です。
そして、午後から大腸の内視鏡の検査が始まりました。
私は、気楽な気分で検査を受けました。
それは、きっと異常なしと言ってもらえると信じていたからです。
ところが、大腸にカメラが入ったとたん朝永先生より肛門のすぐ近くに大きなポリープがあるとの説明がありました。
そして、テレビに写っているポリープを妻に見せていました。
妻は、とても不安そうに私の大腸の中を見ていました。
私には、残念ながら自分の大腸の中を視力の関係で見る事はできませんでしたが先生のお話でポリープの大きさなど理解できました。

無情な検査結果

約1時間の検査のあと先生より検査結果を聴きました。
内容は、大腸の上行結腸の所に約2センチのポリープ、肛門から約2センチの直腸の所に5センチ以上のポリープがあるとの説明でした。
そして、いずれのポリープも大腸ガンのおそれがあるとの無情な検査結果でした。
気楽に思っていた私達夫婦の心は、谷底に突き落とされた思いで言葉もでませんでした。
朝永先生は、自分の先輩で長崎医療センターの内科医西山先生を紹介するから一度西山先生にも検査をしてもらってくださいと言われ紹介状を書いてくださいました。
そして、12月5日、長崎県大村氏にある長崎医療センターに診察に行きました。
西山先生は朝永先生の先輩にあたり以前嬉野の医療センターに勤務しておられたそうです。西山先生は、自分も目で大腸の中にあるポリープを見てみたいのでこちらでも内視鏡の検査をしましょうと言われました。
そして、12月18日、再び大腸の内視鏡の検査をしました。
結果は、朝永先生の検査結果と同様に大腸ガンの可能性がたかい。
2センチのポリープは、内視鏡で取る事は可能だが5センチ以上のポリープの方は内視鏡での摘出手術では難しいとの説明でした。
大腸の内視鏡での手術は、約二週間の入院の必要があるとの事で、入院の申し込みをして帰りました。
入院の日は、正月が終わり1月9日と言う事になりました。

人生初の入院生活

そして1月9日、妻に付き添われて長崎医療センターに入院しました。
私にとって初めての入院です。
長崎医療センターは、長崎県の大村市にあり嬉野から約1時間の所にありとても近代的な病院でホテルのような感じがしました。
部屋は、少し贅沢でしたが8階の特別室に入院しました。
特別室は、とても病室とは思えないほど設備が整っており、部屋はシティーホテルのシングルルームなみの広さでバス、トイレは勿論、テレビ・冷蔵庫・電話と設備が
整っていました。
荷物は、パジャマなどの衣類とパソコンなど機器を持って行きました。
ホテルのような設備の病院ですが、ホテルと違っている点は、盲導犬が病棟に入る事ができないと言う事です。
外来の待合室や外来の診察室には盲導犬を入れて頂いたのですが病棟や病室には、いくらお願いしても規則ですからダメと言われました。
今まで、ホテルや飲食店のバリアを取り除く活動をしてきましたが、病院とは縁がなく新たなバリアを感じました。
病院の規則で盲導犬が入れない為にアロマは、外来の看護師さんの詰め所に預かってもらいました。
入院の手続きが終わり荷物を降ろしてパジャマに着替えて生まれて初めての入院生活が始まりました。

長崎医療センター

長崎医療センター(写真参照:ウィキペディアより)

手術の説明

妻とアロマは、私を一人置いて帰って行きました。
午後からは、早速検査が始まりました。
呼吸器・循環器・消化器等の検査でした。
検査の無い時間は、とても退屈でパソコンを開いて本を読んでいました。
入院をしているとはいえ、身体、は、ピンピンしており、痛みもだるさもなく一日中、本を読んでいました。
私が興味を持って読んだ本は、私と同世代の歌手の人の自分史でした。
御三家と言われた、橋幸夫さん・舟木一雄さん・西郷輝彦さん、そして昭和のスーパースター石原裕次郎さん・美空ひばりさん・五木ひろしさん・都はるみさん・天堂よしみさん・竜哲也さん・藤田まことさんなどいろんな人の本を読みました。
そして、いろんな人の人生を知る事ができました。
一週間がすぎ1月17日、いよいよ手術の前日がやってきました。
そして、担当医の西山先生より翌日の手術の説明がありました。
当初は、2センチのポリープと10センチのポリープを内視鏡で取って頂けると思い喜んでいたのですが、前日の説明では、2センチのポリープは、取れるが10センチのポリープの方は、内視鏡では無理と言われガッカリしました。
したがって明日の手術では2センチのポリープのみ取るとの事、10センチの方は、お腹を切って外科手術でしかとれないとの説明でした。
ようやく、今回の手術で全て終わると思っていましたがまだまだ続くと知り身体からいっぺんに力が抜けてしまいました。

手術の日

1月17日、いよいよ手術の日がやってきました。
いつものように朝から2リットルの下剤を飲んで手術を待っていました。
二つのポリープが取れるのなら心も少しは弾むのですが小さい方が一つしかとれないと聴いてあまり喜びはありませんでした。
内視鏡での手術は、マスイなど使用しませんので、手術の様子は、全てわかりました。
妻は、手術室の外で心配そうに待っていました。
アロマは、外来の看護師さんのお部屋で待っていました。
約1時間の手術が終わり妻が手術室に入ってきました。
そして私の手を握り、よく頑張ったねと言ってくれました。
西山先生は、妻に手術の内容を説明しておられました。
その後ストレッチャーに乗せてもらいCTを撮りにいきました。
CTの撮影が終わり病室に戻る時、妻に頼んで看護師さんの部屋に待っていたアロマを連れてきてもらいました。
アロマは、久しぶりに会う私を見て、本当に嬉そうに飛びついてきました。
私は、アロマの気持ちがよくわかり左手でアロマの頭を指すってやりました。
僅かな時間の対面でした。
そして妻は、再びアロマを看護師さんの部屋に連れていきました。
私は、看護師さんにストレッチャーを押してもらい病室へ戻ってきました。
私の身体には点滴や纂疏の管などいろんな管があり起きる事が出来ず病室のベットにねかされました。
食事は、点滴ですので何も問題はありません。

手術後に思わぬ苦戦

一番困ったのはおしっこです。
起き上がる事が出来れば何も問題はないのですが寝たままでのおしっこは、とても難しい事でした。
看護師さんに尿瓶を持って来て頂き横向きでおしっこをしようと思うのですがなかなかでません。
何度も挑戦するのですが何度してもおしっこはでてくれません。
看護師さんは、クダを入れて出しましょうかと言われるのですがクダを入れるのはとても痛いような気がしてもうちょっともっちょっとと逃げていました。
でも、これ以上は待てないと思いしぶしぶクダを入れてもらいました。
確かに、クダを入れる時は少し痛みがあり苦痛でした。
でも、入れてしまうと自然と溜っていたおしっこが簡単に出てくれました。
おしっこが出た後は、とても快適ですっきりしました。
その後クダを抜いてもらいベットの上で尿瓶でおしっこをしました。
あとは、尿瓶でも大丈夫でした。
なかなかおしっこが出ない時看護師さんは、風呂場に行って水道の蛇口をひねり水を出し私は、看護師さんになぜ、水を出すのかをお尋ねしました。
すると看護師さんは、水の出る音を聴くと条件反射でおしっこがよく出ると教えてくださいました。
確かに水の出る音を聴くとおしっこの出は良いような気がしました。

二つの選択肢

大腸の内視鏡での手術で2センチのポリープを取りました。そして、そのポリープが検査に送られました。
結果は、無情にも大腸ガンと言う結果でした。
今回、内視鏡では取れなかった10センチのポリープもガンの可能性が強いとの事、早急に外科手術をして10センチのポリープを取ったほうが良いと言われました。
10センチのポリープは、肛門から約2センチの場所に出来ており、手術もとても難しいと言われました。
また、肛門に近い為に人口肛門になるとの説明でした。
人口肛門は、永久的な人口肛門と一時的な人口肛門があり私の場合永久的な人口肛門になる可能性が高いとの無情な説明でした。
次は、外科手術をどこの病院でするかの選択でした。
西山先生は、私に二つの選択肢を与えてくださいました。
一つは、このまま、長崎医療センターでの手術です。
もう一つは、地元嬉野医療センターでの手術です。
西山先生のお話では、もし、このまま長崎医療センターで手術をすれば100パーセント永久的な人口肛門になります。
もし、嬉野医療センターで手術をするのであれぱ、ごく僅かの可能性だが永久的な人口肛門にならないかもわからないとのお話でした。
私は、一も二もなく嬉野医療センターで手術をする事を決め西山先生にお願いしました。
西山先生は、早速嬉野医療センターへの入院の手続きを始めてくださいました。
そして、1月22日長崎医療センターを退院しました。

妻・洋子の入院

1月22日、午前10時、妻とアロマが私を迎に来てくれました。
久しぶりに我が家に帰ってきました。
自宅についたとたん妻は、自分の入院の為の準備を始めました。
実は、妻は、10日ぐらい前から体調を壊しており、私の退院を待っておりました。
妻の病名は、帯状疱疹と言う病気でとても痛みのある疾患です。
おそらく私の病気の心配や今までの無理がたたったのだと思います。
本当は、すぐにでも入院をした方が良かったのですがアロマがいる為に入院する事ができませんでした。
家には、82歳になる身体の不自由な母しかいなく、とうていアロマの面倒を見る事はできず、妻が入院する事は出来ませんでした。
ですから、妻は、私の退院を待っていました。
妻は、私を自宅に下ろすとすぐに嬉野医療センターに入院しました。
ようやく、妻の手料理にありつけると思っていたのですが、残念ながら妻の手料理は、追わず毛になりました。
自宅には、身体の不自由な82歳の母とアロマ、そして退院したばかりの私の三人です。
食事は、母は、残り物の材料で自分の食事を作って食べていました。
私は、仕方なく、近くの食堂に行ったり弁当を買って食事をしていました。
1月29日、ようやく妻が退院して帰ってきました。
久しぶりに家族が揃いました。

大腸に二つのがん細胞

1月30日、午前8時、自宅を出発して一週間前まで入院していました長崎医療センターに検査の結果を聴きに行きました。
内視鏡の手術をしてくださいました西山先生にお会いして検査の結果を詳しく聞きました。
検査の結果は、大腸に二つのがん細胞があり、他の組織に転移している可能性が強いいとの無情な報告でした。
その後、車を飛ばして嬉野医療センターの外科外来に行き西山先生がご紹介してくださいました、外科医の「とう先生」の診察をうけました。
とう先生は、私のお尻に指を入れて肛門近くのポリープを触ってみられました。
そして、手術は、早い方が良い、早速明日入院してくださいと言われました。
幸い、外科病棟の特別室があいており翌31日に嬉野医療センターに入院しました。
嬉野医療センターは、長崎医療センターと同じ系列の病院で先生方も横の繋がりがあります。長崎医療センターで担当してくださいました西山先生も以前は、嬉野医療センターに勤務しておられ、とう先生とは、ご一緒にお仕事をされていたとの事でした。
嬉野医療センターは、私の自宅からとても近く、歩いても約15分ぐらいで行く事ができます。
1月31日、嬉野医療センターに入院して、手術の為の検査が始まりました。
手術の日は、2月12日、午前9時と決まりました。
そして手術の数日前に、妻と長男と私の三人に担当医より病状の説明と手術の方法の説明がありました。
内容は、お腹を切って直腸にできている10センチのガンと、長崎医療センターで内視鏡で切り取った2センチのガンの部分を切断するとの事でした。
また、ガンの周囲にある組織を切り取ってガンの転移があるかどうかを検査するとの事でした。
また、直腸を、20センチぐらい切り取るので人口肛門を作る為の手術もするとの説明でした。
ガンの転移もお腹をあけてみないとわからない、人口肛門も手術をしてみないとわからないとの説明でした。

嬉野医療センター

嬉野医療センター(写真参照:ウィキペディアより)

大きな不安

私の心は、二つの大きな不安がありました。
一つは、ガンが他の組織に転移しているのではないか、もう一つは、永久的に人口肛門になるのではないかとの不安でした。
もし、ガンが他の組織に転移していると、手術後は、ガンの治療をする事になり、死と直面する事になります。
また、永久的な人口肛門になると生涯人口肛門の生活になりとても不自由になります。
こんな大きな二つの不安を持って手術の前日をむかえました。
前日の夜は、私自身、ガンの転移と永久的な人口肛門になる覚悟はできていました。
不思議に、心は、穏やかであまり不安はありませんでした。
ただ、人口肛門になった時どんな形の袋を使うのかどんな方法で使用するのかがわかりませんでした。
そして、検温にこられた看護師さんに人口肛門の袋の形や使用の方法をお尋ねしました。
看護師さんは、初めは、口で使用の方法を説明しておられましたが、途中から本物を見た方が良く判ると言ってナースステーションから本物の袋を持ってきて私に見せてくれました。
人口肛門に使用する袋は[パウチ]と言って二つの部品から出来ております。
一つは、土台と言って袋を止める物です。
CDぐらいの大きさで粘着材がついており人口肛門の上にはりつけます。
その土台に便を貯める袋を取り付けます。
私にとって初めて見る袋でした。
私は、看護師さんに許可を貰って実際に自分のお腹に取り付けてみました。
明日から、この人口肛門の袋と一生涯つきあっていかないといけないと思い、リハーサルのつもりで付けて寝る事にしました。
初めて付ける、袋は、正直言ってあまり悪い感じはしませんでした。

還暦

一時間ぐらいうとうと眠っていましたが、ある事にきづき飛び起きました。
それは、リハーサルのつもりで付けて寝た袋の為に明日の手術ができなくなるのではとの心配でした。
早速、先程付けていた袋を取り外しました。
後で考えてみますと付けて寝ても取り外してもあまり関係のない事が判りました。
でも、その時は、とても心配しました。
なぜならば、明日の手術の為に医師も看護師さんも家族の者も準備をしてくれておりこんな事で手術が延期になってしまうと申し訳ないとの思いでした。
こんな出来事がありましたが前日は、ぐっすりと眠る事が出来ました。
いよいよ手術の当日、5時に目がさめました。
手術は、午前9時からですがかなりの長い時間がかかると聴いていました。
午前7時、妻とアロマがやってきました。
また、長男や長女、大阪から手伝いに来てくれていた妻の妹の清子や治療院の社員さんも来てくれました。
そして、担当医の先生も「今日は頑張りましょう」と励ましの言葉を言いに来てくださいました。
手術室に入るときに身に付ける物は、パンツと病院が用意した白のストッキングだけとの説明があり赤いパンツをはきました。
実は、手術の五日前の2月7日は、私の60回目の誕生日で還暦でした。
この還暦を記念して長女美香が私に赤いパンツを買ってきてくれました。
勿論、2月7日の誕生日もこのパンツをはいたのですが、手術の日も娘が私の為に買ってきてくれたパンツをはいて手術を受ける事にしました。

二人で唄った「二人三脚夫婦旅」

午前8時30分、車椅子に乗って一階の外来の待合室に降りて行きました。
待合室には、アロマが私を待っていてくれました。
アロマも動物的勘で私の手術の事を知り心配していたのでしょうとても興奮して飛びついてきました。
約5分間の対面でしたがアロマにお別れを言って病室にもどってきました。
8時50分、看護師さんがストレッチャーで私を迎えにきました。
私は、家族に見守られてストレッチャーにのりました。
妻は、私の横に来て手を握っていました。
私は、妻に私達の歌をかけてほしいと言いました。
妻は、小型のMDレコーダーに妻と二人で唄った「二人三脚夫婦旅」のMDを入れてかけてくれました。
約5分間の歌でしたが妻の目にも涙、私の目にも涙が溢れて止まりませんでした。
私は歌を聴きながら、今まで妻と歩んだ40年間を振り返り妻に心から感謝のお礼とお別れを言いました。
歌が終わり、看護師さんにストレッチャーを押してもらい手術室にむかいました。
妻も家族も私の後から付いて来てくれていました。
そして手術室のドアーが開き家族とお別れしました。
家族は、控え室で私の手術が終わるまで待っていました。
午前9時、予定どおり手術が始まりました。
約9時間半の手術が終わり、午後9時、私が手術室から出てきました。
妻は、私の手を握り手術は大成功だったと涙を流して喜んでくれました。
手術の結果は、ガンも取れ他の組織にも転移がなく、ガンの心配はないとの結果でした。
また、人口肛門も永久的な人口肛門ではなく一時的な人口肛門で数ヶ月すれば取れるとの嬉しい結果でした。
私は、その時の事は、よく覚えていませんでしたが妻の話では、よかった、よかったと涙を流していたそうです。
妻にとって家族にとってこの日の一日は、とても長く不安な一日だったと思います。

岸川美好&洋子「二人三脚夫婦旅}

岸川美好&洋子「二人三脚夫婦旅}

 

退院、再び妻の入院

手術後は、一晩ICUで過ごしました。
翌日は、病室に戻りナースステーションの近くの部屋に入り一週間その部屋で治療を受けました。
手術は、お腹を約30センチ切っていました。
また、右のお腹に一時的な人口肛門が作ってありそこから便を出しています。
また、お腹の左下に20センチぐらいのクダが入っており、5月7日までクダがとれませんでした。
その為にお腹を圧迫されとても歩きにくい日が続きました。
4月7日、二回目の手術の為の入院生活が終わり、退院しました。
ようやく家族三人が揃いました。
ところが私が退院して約10日後の4月16日、妻が急性腎盂炎で10日間嬉野医療センターに入院しました。
おそらく私の入院や、母の入院で心配したり無理をした結果の病気だったと思います。
今年の前半は、私の入院、母の入院、そして妻の二回の入院と本当に病気の年でした。
私も妻も今年で60歳、お互いに還暦を迎えました。
やはり、人生60年も生きるといろんな所に異常がでるものですね。


コメント

  1. さいとう より:

    岸川様はじめまして。いつもブログを楽しみにさせて頂いております。
    感動して涙が止まりませんでした。特に奥様と一緒にMDで曲を聞いたというくだりは、そのときの状況がありありと伝わってきて、夫婦って素晴らしい!と思いながら読ませて頂きました。MDっていうのも時代を感じました。
    今はお体の方は大丈夫なのでしょうか?
    4月6日に発売されるアルバムは発売日に購入するとして、それまではこれまでの岸川さんの曲をこのホームページで聞いて楽しみながら待ちます。
    このブログを読んだ後、すぐに二人三脚夫婦旅の曲を聞きました、3回ほど繰り返し聞きました。私にも妻がおりますが、改めて妻に対する感謝の気持ちが込み上げてきました。
    今日家に帰ったら妻に何かお礼をしようと思います。
    それでは、これからもどうぞお体を大切に、そして岸川さんの成功を心よりお祈り申し上げます。

    1. 岸川 美好 より:

      さいとう様、投稿ありがとうございました。
      あらためまして自己紹介をさせて頂きます。
      私は佐賀県の嬉野市に住まい致しております岸川美好と申します、。
      嬉野市はお茶と温泉と焼き物の町で温泉街には30軒以上の旅館やホテルがあります。
      また、地元の食材を使った飲食店やスナックなどあり各地より観光に湯治に沢山の方がこられています。
      私の本業は鍼灸マッサージと整骨治療で、妻の祖父が昭和の初めに嬉野町で岸川鍼灸院を開業して今年で90年になります。
      私の生まれは山口県宇部市で20歳の時、福岡のマッサージ学校で妻と知り合い結婚を約束しました。
      ところが、妻の両親は目の悪い私との結婚を反対しました。
      しかたなく、山口県の岩国に駆け落ちしました。
      そして三ヶ月後にようやく妻の両親の許可をもらい、養子を条件に結婚を許してもらい佐賀県の嬉野町へ来ました。
      その後は妻と二人で涙と感動の人生をおくっております。
      まさに、歌の歌詞通り(二人三脚夫婦旅)でした。
      妻は目の悪い私の目になり杖になり支えてくれました。
      特に今から十数年前に夢のNHK紅白出場を願い妻の手引きで長崎から東京まで歩いた時二人で(二人三脚夫婦旅)を歌いながら東京を目指して歩きました。
      この歌こそ私達夫婦の原点です。
      その歌を聞いて涙を流して頂いた事に心より感謝申し上げます。
      今、私達夫婦あらたな目標に向かって妻と二人三脚で頑張っております。
      その夢とは4月6日に発売される岸川美好デビュー17周年の代表曲「湯の町嬉野しのび宿」を一人でも多くの人に覚えて頂きカラオケで歌って欲しいと願っております。
      なぜなら、私達夫婦を育ててくれた人情あつい嬉野町に少しでも歌で恩返しが出来たら戸の想いで頑張っております。
      もし、よろしかったら今、私達夫婦が一番頑張っております「湯の町嬉野しのび宿」を覚て頂カラオケで歌ってひろめてくださいませ。
      どうかよろしくお願い致します。
      岸川美好と洋子からのお願いです。

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