岸川美好物語

岸川美好物語 第七章 整骨院の開業

妻の実家・嬉野で整骨院を開業

嬉野へ帰ってきました

昭和48年3月、妻の協力で、なんとか柔道整復師の免許をとる事ができ嬉野へ帰ってきました。
四年前、いやでいやでたまらなかった嬉野の妻の実家も、四年間の歳月が思い方を変えてくれていました。
おそらく、宇部での出前マッサージの体験や、大阪でのマッサージの開業、海苔売りの体験など、いろんな体験の中で、小さな自信を手にしていたからかもわかりません。
当時の岸川マッサージは、父と母と、後二人の職人さんの四人で営業をしていました。
私も、マッサージのスタッフとして、働く事になりました。

あるセールスマンが、整骨院の開業を勧めました

そして、二年がたちました。
そんなある日、医療器械のセールスの人がたずねてきました。
そして、私の整骨師の免許を見ました。
彼は、私に整骨院の開業を勧めました。
私は、その人へどうしたら整骨院が開業できるかをたずねました。
当時の整骨院は、資格を取って、二年以上のインターンをしなければ開業ができませんでした。
ところが、私は、卒業後、嬉野町へもどり、マッサージの仕事をしていましたので整骨のインターンは、しませんでした。
もし、整骨院を開業しようとすれば、どこかの整骨院にいき二年間以上のインターンをしなければなりません。
かといって、いまさらインターンに行く事もできず、どうしようかと悩みました。
でも、開業はぜひしたいと思い、いろいろ方法を考えました。

先生のお宅の庭先で座り込み

そして、一つの方法を思いつきました。
それは、どこかの整骨院の先生にお願いして、架空のインターンの証明を書いてもらう事でした。
早速、山口県のある整骨院に飛び込んで行きました。
そして、架空のインターンの証明書の発行をお願いしました。
まったく、見ず知らずの者が、飛び込んで来て、しかも、一日もインターンもせずに、二年間インターンをした事にして、証明を書いてほしいとの話ですから、だれも首を縦にふる人はいません。
当然の事です。
でも、私は、その先生になんとか証明書の発行をしてほしいと一生懸命にお願いしました。
ずいぶんお願いしたのですが、まったく取り付く島はありませんでした。
仕方なく、私は、座り込みをする決心をしました。
早速、その先生のお宅の庭先で座り込みをしました。
その日は、午後8時ぐらいまで座っていました。
そして、ご挨拶をして、帰りました。

二年間のインターンが、三日間の座り込みで完了

翌日午前8時、再び整骨院に行き、先生にご挨拶をして、昨日と同じ場所に座りました。
午後8時、先生にご挨拶をして帰りました。
三日目、午前8時、整骨院に行き、ご挨拶をして同じ場所へ座りました。
その日の夕方、、私の前に先生が立たれました。
右手には、二年間のインターンの証明書を持っておられました。
そして、私に手渡してくださいました。
私は、「ヤッター」と心の中で思いました。
私は先生にお礼を言って、妻の待つ嬉野町へ帰りました。
これで、整骨院の開業をする事ができます。
おそらく先生は、三日間、私の本気さを見ておられたのではないかと思いました。
二年間のインターンが、三日間の座り込みで完了する事が出来ました。
ちなみに、現在は、免許があれば、インターンをしなくとも開業ができます。
当時は、業者間の規定で、そんな規則がありました。

整骨院の開業、増え続ける患者さん

はれて、整骨院の開業です。
それまで、義父の経営しているマッサージ院の一スタッフとして働いており、常にナンバーツーのポジションでした。
ですから、全ては義父の経営方針に従うしかありませんでした。
ところが、整骨院は私が院長であり経営者です。
なんでも自分が決めて思うようにやる事ができます。
当時は、整骨院の数も少なく、しかも健康保険も使え、特に社会保険の加入者は、一割負担、70歳以上の老人は、負担金ゼロと、とても良い時代でした。
ですから、行列ができるほどの大繁盛でした。
特に午前中などは二時間待ちと言うのは普通で、お年寄りが待合室にいつも十名以上待っておられました。
そのうち、岸川整骨院の患者会なるものが出来て、ますますお客様が増えていきました。
中には、治療をそっちのけで患者会だけ入る人も増えて患者会は大きくなっていきました。
元々、元気なお年寄りばかりですので、待合室は唄ったり踊ったりで毎日が宴会気分です。
その内、月に一回、懇親会の日ができ、それぞれお酒など持ち寄って、楽しい会になりました。
この事が話題になり、遠くから沢山の患者さんが来てくれる様になりました。

頭の中は、落成式の事ばかり

昭和53年、整骨院を開業して三年目、ある知り合いの整骨院の先生が、落成式をされました。
私も、その落成式に呼ばれました。
私にとって落成式は、初めての事でとても感動しました。
そして、自分も落成式がやりたくなりました。
ところが、落成式をするには、家を建てなければできません。
私は、落成式をする為に家を建てる決心をしました。
早速、義父に家を立てようと相談しました。
義父は、お金がないから、立てられないとあっさり言いました。
私は、どうしても落成式をしたくてたまりません。
私の頭の中は、落成式の事ばかりです。
会場の事、お招きするお客様の事、料理の事、引き出物の事と落成式のセレモニーの事ばかりです。
でも、ゴールの落成式にたどり着くには、どうしても家を建てる必要があり義父を説得しなければなりませんでした。
結局、お金は、私が作ると言う条件で、なんとか、義父を説得しました。

夢の四階建のビルが完成

早速、近くの銀行へ飛び込んで行きました。
私は、今後の見通しや、仕事にかける思いを一生懸命に話しました。
そして、4500万円の融資を約束して頂きました。
実は、融資のお願いに行った銀行は、今までまったく取引のない銀行でした。
でも、私の夢に掛ける思いに賛同してくださいました。
建物は、四階建てのビルで、一階は、駐車場と社員の待機室、二階は、整骨院の治療室とマッサージの治療室、そして待合室です。
三階、四階は、自宅で私達の住みやです。
思い立って、約一年後、夢の四階建のビルが完成しました。
そして、待望の落成式をしました。

本院ビル全景

本院ビル全景

我が子の晴れ舞台

当日は、親戚の人、近所の人、同業者、友人、岸川マッサージの社員さん、そして、私の実家の母が落成式に出席してくださいました。
特に、実家の母は、子供のころから、目が悪く、不憫と思っていた、我が子の晴れ舞台を、心から喜んでくれました。
父は、昭和50年、私が整骨院を開業した年に、66歳で亡くなり、私の晴れ舞台を見る事はできませんでした。
でも、きっと、あの世から見てくれていたと思います。
子供のころ、道楽者で母を泣かせていた父を、本当に憎いと思っていました。
でも、よく考えて見ますと私には、とても優しく、良い父親だったと思える様になりました。
特に、16歳の時、パラリンピックの出場がきまったとき心から喜んで、私の練習につきあってくれた優しい父に見てほしいと思いました。
そして、感動の落成式が終わりました。
始めは、遊び心でスタートした本院ビルの建設も、ひょうたんからコマで作る事ができました。
やはり何事も、遊び心をもたないといけないなーと改めて感じました。
実は、妻は子供の時から、家の後を継ぐ事を義務づけられており、大人になったら、三階建てのビルを建てたいと思っていたそうです。
そして、小学校三年生の時の作文に「大人になったら父の為に三階建てのビルを建てる」と書いたそうです。
お陰で、私の夢、妻の夢をはたす事が出来ました。

また落成式をやりたくなった

これはつけたしですが、それから一年後、再び別な人の落成式に行きました。
そして、また、落成式をやりたくなりました。
早速義父に、二本目のビル建設の相談をしました。
勿論、大反対です。
でも、私はあきらめる事が出来ずに再びチャレンジしました。
そして、一年後、二本目のビルが完成しました。
ビルは、2DK・4戸、1DK6戸の集合住宅で四階建ての建物です。
わずか、二年で、四階建てのビルが二本も出来ました。
将来、この二つのビルが大きく事業に貢献してくれました。
特に、二本目のビルは、従業員の宿舎として大変役に立ちました。
私のところの社員さんは、90パーセントが目の見えない人で、なかなかアパートを貸してもらう事ができません。
ところが、自社ビルであれば、どんな人でも受け入れる事ができ、将来の事業の拡大に大いに役に立ちました。
一本目のビルも二本目のビルも落成式がやりたいばかりに立てたビルでしたが、今ふりかえって見て、本当によかったと思っています。

社員宿舎

社員宿舎

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