だれかが助けてくれた

だれかが助けてくれた 第1章-1/大きくなつたら社長になる

岸川美好著作「だれかが助けてくれた」

昭和二三年二月七日山口県の宇部と言う町に生まれました。

男ぱかりの四人兄弟の末っ子として生まれたのですが、次男三男は戦時中で食料も無く、私が生まれる前にすでに亡くなっており、一二歳違う長男と二人兄弟になっており、兄も私も一人っ子のように育てられました。

この頃父は炭坑の重役をしており、人の世話などもよくして、他人には人望が厚く、比較的慕われていたようです。

母は、この年小さな旅館を始めました。

父は道楽者でいつも母は泣いていました。

父は炭坑で貰った給料は一銭も母に渡す事なく、自分の為だけに使っており、金が無くなったら母の元に取りに来て、母がお金を出さない時は暴力をふるって持って行っていました。

当時は草競馬が盛んで、父も博打が好きで競馬馬も何頭もかっていたそうです。

その上お妾さんも何人もいて、お妾さんと喧嘩をしたと言って母に八つ当たりをして暴力をふるっていました。

こんな父でしたので母は自分で稼ぎ、兄と私を養う為に寝る間も惜しんで働いていました。

時には母も余りの父の仕打ちに耐えかねて、母の兄の所へ私をつれて逃げて行ったのですが、母の兄に説得され、泣きながら家に帰ったそうです。

何度か私の手を引いて線路のそばまで行ったそうですが、何も知らない私の顔を見て思いとどまったと言っておりました。

こんな状況の中、母は生きる為に旅館を経営し、食料もあまり無い時代でしたのでお百姓をしてお客さんの料理や私たちの食べ物を手に入れてくれていました。

父はあまり家に居る事も無く、たまに家に帰った時は母から金を取って行くときだけです。

その度に、拒む母に暴力をふるって持っていく父の姿しか私には覚えがありません。

そのために子ども心に父を憎み、父の姿を見る度に「こんなヤツ死んでしまえぱよい」と思っていました。

こんな父でしたが私は可愛かったのでしょう。

子どもの頃から父におこられた事はなく、兄よりも私を大切にしてくれた様な気がします。

母に対して暴力をふるわなけれぱ100パーセント好きな父だったかも知れません。

父は炭坑の重役という立場でしたのでいつも背広を着て、車もお抱え運転手がいて、一見社長のようで他人には面倒見がよく、はた目では、いいお父さんの様に見えていました。

私が小学校に入学する頃宇部市の市会議員にも当選し、ますます他人には評判が良かったようです。

元々父は嫌いではないのですが、母に対して暴力をふるう事がいやで、父などどこか行ってしまえぱよいのに、早く死ねぱよいのにと憎む心とは逆に、自分も大人に成ったら父のように背広を着てお抱え運転手をもち、社長のようになりたいと思う心があった様です。

母は仕事が忙しい為、私の守りなどする暇が無く、私専用の子守を雇ってくれていました。

20歳ぐらいの女の子守で、「まめちやん」と言う人でした。このまめちやんは田舎から出てきた人で、いつも私をおぶって芝居小屋に行っていたそうです。

この子守のまめちゃんはチャンバラが好きで私のおむつが濡れていても気づかずに芝居を見ていたそうです。私はよく覚えていないのですが、このまめちゃんに大きくなったら社長になるんだと言っていたそうです。

その頃は自分も両親も、私が目が悪いといぅ事には気づいていませんでした。

母にとっての生きがいは私の将来だけが楽しみだったのでしょう。

そんなに期待をしていた私の目が悪いと知った時、すべての心の支えがとれ、生きる希望を失ったことと思います。

何とか私の目をなおしてやりたいと思い、良い眼科があると聞けばどこまででも診察につれていってくれました。

どこの眼科に行っても私の目をなおして下さる先生はいらっしゃいませんでした。

その時、母は医学の力を諦めて神仏にお願いしようと思い、信仰の道に入りました。

島根県に一畑薬師という目の神様があります。

山の上にあるお寺で石段を千数百段登った所にあります。

いまでは麓までバスがいくのですが、当時は道が無く、石段を登っていくしか方法がありません。

このお寺に三日間泊まり、朝は二時間ぐらいお経を上げ、夕方また二時間お経を上げ、深夜12時になったら、そのお堂の周りの石畳の上を裸足でお百度まいりをします。

広いお堂ですので二時間近くかかり、寒い時期に裸足で歩くため、身体中が凍えるおもいです。

こうして三日問このお寺で修行をしたら、山道を三時閘ぐらい歩いた所に一畑薬師さんの奥の院があり、海岸近くの小さなお堂に一週間こもり修行をします。

朝は二時間、夕方も二時間のお経を上げ、深夜は冷たい海に一時間も入り、お経を上げてお願いします。

また、山口県の山奥の滝にうたれて修行をしていました。

そのおかげで将来失明すると言われた私の目が、現在多少でも見えているのは、母が自分の体をいためても私の目をなおそうとしてくれたおかげと感謝しています。

こんな修行で母も無理をしたのでしょう。

六〇歳の頃リュウマチになり、動くのも不自由になり、一五年間苦しんで七四歳でなくなりました。

こんな苦労だけをする為に生まれてきた母を安心させてやりたい、その為に大きくなったら社長になって母に喜んで貰いたいといつも心に思っていました。


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