岸川美好物語

岸川美好物語 第八章 事業の拡大

当時は色街として賑わっていた嬉野

義父の死去と決断

昭和56年、義父が59歳で亡くなりました。
それまで、義父がマッサージ院の経営、私が整骨院の経営と、それぞれ別な仕事をしていました。
当時のマッサージ院は、義父と義母と、そして二・三名の社員さんで、営業をしていました。
私は、整骨院の経営を続けるか、それとも、昭和三年から続いているマッサージ院を引き継ぐかずいぶん迷いました。
でも、おじいさんの時代から続いたマッサージ院をすてるわけにはいかず、結局、整骨院をやめる事にしました。
それからは、マッサージ院の経営を真剣に考えました。
まず、マッサージスタッフの募集から始めました。
マッサージスタッフは、免許がなければ働く事ができません。
私は盲学校時代の同級生や先輩にお願いして、マッサージスタッフを探してもらいました。
また、観光地のホテルに泊まってマッサージさんを呼び、募集活動をしました。
でも、なかなか私のところへ来てくれる人はいません。
でも根気よく探しました。
そのうちに、一人増え、二人増え、最後は二十名以上のスタッフがあつまりました。

様々なビジネスへの挑戦

今度は、仕事を増やす作戦です。
嬉野町は温泉の町で、町内には50軒以上の旅館があります。
ところが、私の職場は目の見えない人ばかりで、なかなか旅館が呼んでくれません。
普通、マッサージの注文はお客様が旅館のフロントへ注文して、フロントがマッサージ屋さんに電話をかけてマッサージの人が行くのが普通の流れです。
私はこの旅館の仕事を増やす為に二つの事をしました。

一つは、直通電話の設置です。
私の所で電話機を用意して旅館へ置いてもらいました。
マッサージの注文は、その電話で私の所へ掛けてもらいますので、旅館に電話代の負担を掛ける事がなく、旅館からとても重宝がられました。
今で言うと、フリーダイヤルの電話です。
勿論、そのころはフリーダイヤルのサービスなど無い時代でした。

二つ目は、健康パックの発売です。
健康パックとは、ゴルフパックと同様にマッサージと宿泊をセットにした商品で、今までの流れと180度異なった商品です。
通常、旅館に泊まったお客様がマッサージを頼むのですが、健康パックは私の所のマッサージを受けるために嬉野の旅館に泊まるというコースです。
ですから、私の方が旅館を斡旋しますので、立場が反対になります。
私はこの健康パックのお客様を増やす為に、いろんな活動をしました。
まず、新聞社に行って、健康パックの取材をしてもらいました。
次に旅行代理店に行って、健康パックのPRをしました。
始めは、相手にされないのではないかと思いましたが、旅行代理店も新しい商品を探しており、しかも、健康ブームと言う事も追い風になり、大歓迎されました。
次に、我が社のマッサージスタッフで、いくつかのチームをつくり、長崎駅・佐世保駅・博多駅などで、健康パックのチラシを配りました。

三味線の音で賑わっていた、当時の嬉野温泉

当時の嬉野温泉は、色町として有名な温泉地でした。
芸妓さんも200名以上いて、旅館の宴会場は三味線の音で賑わっていました。
そんな町を、何とか健康増進の町にしたいと思い、健康フェスタを計画しました。
健康フェスタの内容は、だれか健康関係で著名な人に来て頂き講演をして頂きたいと想い、候補者を探しました。
結局、「指圧の心 母心 押せば 命の 泉沸く」で、一世を風靡した、浪越徳次郎先生に来て頂き、「嬉野温泉健康増進の旅」と言うタイトルでおこないました。
いろんな、旅行代理店に集客のお手伝いをして頂き、当日、2000名のお客様が嬉野温泉にこられ、第一回の健康フェスタは大成功しました。
これで、色町、嬉野温泉が、ちょっとだけ健康づくりの温泉地になりました。

事業の拡大

こんな、努力のかいがありマッサージの仕事も増えました。
また、福岡県・長崎県・岐阜県にもマッサージの支店を出しました。
でも、県外の支店は、目が届かない為にうまくいかず、一年ちょっとで閉店しました。
昭和57年4月、義父が亡くなって一年たったころ、新規事業をはじめました。
それは、ビジネスホテルの経営です。
ビジネスホテルといっても名前だけで、現実は。ラブホテルです。
対象は、観光客が芸子さんと来るホテルで、休憩が中心のホテルです。
私達は、ホテルのフロントで寝泊りしていました。
お客様は、夜9時ぐらいから深夜3時ぐらいまで出入りがあり、妻なんかは、毎日睡眠ぶそくで、大変きつい想いをしました。
あいにく、そのころから不況になり、観光客も減り、ホテルのお客様も少なくなり、毎月お金が足らない月が続きました。
仕方なく、ウイクリーマンションの様なシステムで、月ぎめのお客様を入れる事にしました。
売り上げは、少ないのですが、少しでも売り上げをあげないといけないと思い、いろんなアイデァを出して急場をしのぎました。

「おわん灸」で特許を申請

そんなころ、お灸の器具「おわん灸」を考案して販売をしました。
実は、知人の鍼灸師の人が中国と貿易をはじめました。
そして、中国もぐさを大量に仕入れました。
ところが、なかなか、もぐさが売れず困っていました。
そして、私のところへ中国もぐさを売りにこられました。
私は、少しでも手助けしてあげたいと想い中国もぐさを大量に購入しました。
もぐさは、お灸をする時しか使う事はなく、あまり減りません。
私は、なんとかもぐさを減らす事を考えました。
そしてあみだしたのが、お灸器具「おわん灸」です。
おわん灸は、有田焼の器の中に中国もぐさを入れて火をつけます。
もぐさが燃えて熱がでます。
その熱で、痛みやコリをほぐしてくれます。
思った以上の治療効果がでて、飛ぶようにうれました。
勿論、特許申請もしました。

やめることは進むこと以上に大切

次に、第二段のお灸器具「だるま灸」を考案しました。
だるま灸は、だるまさんの形をしたお灸器具で、これもよくうれました。
お灸器具のお陰でホテルの赤字を補填する事ができ、急場をしのぐ事ができました。
こんな調子で、いろんな物にチャレンジしました。
ちなみに、ビジネスホテルは、平成7年に火事で燃えてしまいました。
儲かった事、損した事といろんな事がありました。
どちらかと言えば、損をした事の方が多かったかもわかりません。
でも、大きな失敗がなかったのは、だめと思った時に、すぐにやめたからだと思います。
進む事も大切ですが、それ以上にやめる事もたいせつだと言う事を学びました。

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