岸川美好物語

岸川美好物語 第三章 運命を変えた金メダル

その後の人生を変えた金メダル

生徒はみんな同じ条件

昭和39年4月、二度目の中学三年を終え、翌年高等部に入学しました。
私は、普通科に行かずに、保健理療科に入りました。
保険理療科は、医療関係の教科が中心ですので、いままでの小中学校の勉強とはまったく違い、全て初めて習う事ばかりで、私にとって、とても幸いでした。
また、盲学校は、生徒数も少なく、一クラス数名で、家庭教師の様な指導方法ですので、とても勉強もしやすい環境でした。
しかも、生徒全員、目が見えませんので、同じ条件で勉強する事ができます。
教科は、解剖学、生理学、病理学、症候概論、衛生学、マッサージ理論、そしてマッサージの実技などです。

感謝の心が芽生えてきました

盲学校に入り、心が変わり、物の見方考え方が変化し、両親や社会にも感謝の心が芽生えてきました。
そして、やる気と自信も少しずつ付いてきました。
そんな、ある日(昭和39年6月)、パラリンピック「身体障害者のオリンピック」の予選会がありました。
私は、盲学校の体育の先生の薦めで出場しました。
私が出場したのは、男子100メートルの陸上と走り幅跳びです。
それまで、目が悪いから走れないと言い訳ばかり言っていましたが、盲学校で小さな自信を手にして走れる様になっていました。
結果は、100メートル13秒フラット。
第一位で優勝しパラリンピックの出場の資格を手にしました。
それまで、小学校、中学校と、運動会のある度にいつもびりを走っており、母に悲しい想いをさせていた私が、だれよりも早くゴールインする事ができました。

大舞台・パラリンピックへの出場

それからは、毎日が走る練習です。
練習相手は、下関商業の陸上部の生徒さんです。
約五ヶ月の練習を経て、パラリンピックに出場しました。
実は、パラリンピックは、この年、(昭和39年 東京でオリンピックのあった年)が初めての大会で、第一回目のパラリンピックは日本で開催されました。
オリンピックの開会式は、昭和39年10月10日でしたがパラリンピックは、11月11日が開会式でした。
私が出場した男子100メートル陸上競技は、11月13日の午前10時スタートでした。私はその頃、100メートル 11秒台で走れるだけのスピードがついており、うまくいけば銅メダル、もっとうまくいけば銀メダル、もし奇跡が起これば金メダルが取れるのではないかと思っていました。

私は出遅れてスタートしました

いよいよ、私のグループのスタートです。
当時のパラリンピックの規則では、視覚障害者の競技はスパイクは禁止されており、ズックかはだしでの出場になっていました。
私は、はだしで走りました。
いよいよ、スタートのピストルがなりました。
私は出遅れてスタートしました。
100メートルは、二度フライングすると失格になります。
折角パラリンピックに出場する事ができたのに、フライングで失格になれば、応援をしてくれた盲学校の生徒や先生、そして私の出場をだれよりも喜んでくれた母、練習に付き合ってくれた父に申し訳ないと思い、慎重にスタートしました。
100メートル陸上は、ほぼスタートで勝負が決まります。
私は出遅れてスタートしました。
そして、一生懸命に走りました。
ゴール寸前でトップに立ち、100メートル12秒3の大会新記録で金メダルを受賞する事が出来ました。
この時の金メダル受賞は、私にとって初めての栄光であり、その後の人生を変える大きな出来事になりました。
私は、その金メダルを手にした時、一つの大きな決心をしました。
それは、これからは何でも、出来ても出来なくてもやってみようと思いました。
これまで、目が悪い事を言い訳の材料にして何でも逃げていました。
でも、これからは、なんでもやってみようと決心しました。

 

1939年の第2回東京パラリンピック、100メートル陸上競技で金メダル。岸川(旧姓:村田)美好

1964年の第2回東京パラリンピック、100メートル陸上競技で金メダル。岸川(旧姓:村田)美好

死んだつもりでプールに飛び込みました

早速、その日の夜、テストがありました。
それは、男子50メートルの水泳の出場です。
実は、私は子供のころから目が悪い為に両親から泳ぐ事を禁止されていました。
ですから、海にもプールにも行ったことはなく、まったくの「かなずち」です。
勿論、水泳がある事は初めから知っていました。
父は、当日、会場に行ってから棄権をする様にと言っておりましたので私もそのつもりでいました。
ところが、今、これから何でも逃げずに挑戦しようとおもったやさきに水が怖いから逃げようとしている自分がいやになり、プールに飛び込もうと考えました。
心の中では、ずいぶん格闘がありました。
もし、プールに飛び込んでおぼれて死んでしまえば折角もらった金メダルを両親にも盲学校の仲間にも見せる事が出来ない。
かといって、水が怖いからと言って水泳を棄権してしまえば、今から先の人生何でも逃げてしまうのではと思いました。
結局、一大決心をして、水泳に出場することにしました。
50メートルの競技ですから、片道の水泳です。
こちらから、飛び込むと、向こうの端がゴールです。
私は、死んだつもりでプールに飛び込みました。

「頑張れ、頑張れ」と大きな声援

同時に八名の選手が飛び込みました。
約10メートルぐらい行った所で、他の七名の選手は全員ゴールにたどりついていました。
私は、初めての水の体験で、死ぬ様な思いで泳いでいました。
苦しくて苦しくてたまりませんでした。
目の前には、コースを分けるロープがありました。
私は、何度もそのロープに手がかかりました。
このまま、ロープをつかんで水泳をやめると、この苦しさから逃げれると思い何度もロープに手がかかりました。
そんな時、会場の約2000名の観客の人から、「頑張れ、頑張れ」と大きな声援がありました。
私の耳にもはっきりと声援が聞こえました。
私は気をとりなおして、再び泳ぐ決心をしました。
「こんなにたくさんの人が応援をしてくれているのだから」と思い、なりふりかまわず一生懸命に泳ぎました。
とても長く、遠く感じました。
でも、最後まで投げ出す事なくゴールインする事が出来ました。

もし、2000名の声援がなかったら

この日、もし、2000名の声援がなかったら、おそらく10メートルの地点で投げ出していたと思います。
もし、投げ出していたら、その後の人生で、困難な事にであったらすぐに投げ出してしまう中途半端な生き方をしていたと思います。
私は今まで、いろんな困難な事にであった時、できないと思った時、投げ出したいと思った時、いつもこの時の水泳の事を思い出して、あの時、やれたのだから、今回もきっとやれると思いチャレンジしてきました。
勿論、成功した事ばかりではありません。
むしろ、失敗した事の方がはるかにおおかったと思います。
今、あの時の水泳の事を思うと、泳げない私が2000名の人の声援があったから泳げたのではなく、元々、泳ぐ能力が私にあったから泳げたと思います。
もし、本当に私に泳ぐ能力がなかったのならたとえ、一万人の人の応援があっても泳げなかったと思います。
死ぬ気になってプールに飛び込んで一生懸命に泳いだから泳げたのだと思います。
そして、私の本気さに感動して、2000名の観客が頑張れコールをおくってくれたから、最後まで投げ出さずに泳げたのだと思います。

だれかが助けてくれる

私は、この時の水泳の体験で、自分が本気で一生懸命にやっていれば、必ず、だれかが助けてくれると言う事を学びました。
それ以来、障害に出会ったり困難な事に出会った時は、この日の水泳の事を思いだし、きっとだれかが助けに来てくれると思える様になりました。
たしかに、もう無理と思った時、もう、ダメとおもった時、不思議に思わぬ助っ人が来て夢が実現した事は、数え切れないほどありました。
ですから、最近では、きっと助っ人が来てくれると信じる事が出来る様になりました。
これは、決して私だけの特技ではありません。
だれにも、みんな平等に助っ人は来てくれます。
あとは、その事をどこまで信じる事ができるかです。
そして最後まで希望を捨てない事だと思います。
私にとって、昭和39年11月13日の出来事は、生涯忘れる事のできない出来事です。
午前中、だれよりも早く、ゴールインして得た栄光の金メダルよりも、無様で苦しんだ水泳の体験こそが、私の大きな自信になりました。
もしあの時、逃げておれば、生涯逃げの人生だったと思います。
人には、大きな可能性があります。願った事は、必ず実現できます。
実現できるか出来ないかは、本人のやる気しだいだと思います。

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