岸川美好物語

岸川美好物語 第六章 整骨学校の入学

大阪での生活がはじまりました

一人で夜行列車で大阪に行きました

大阪の整骨学校の入学が決まり、いよいよ大阪に行く事になりました。
私は、働くところ、住む所を探す為に一人で夜行列車で大阪に行きました。
私にとって大阪は初めての町で、西も東もさっぱりわかりませんでした。
私は、大阪の南と言う、最もにぎやかな所へいきました。
そして、あるマッサージのお店に行きました。
幸い、マッサージ師をさがしているとの事で、やとってもらう事になりました。
初めは、住むところがありませんので、住み込みで働かせて頂きました。
妻は家がみつかるまで、嬉野の実家にいました。
勿論、長男も妻と一緒にいました。
私は午後から学校へ行って、夜はマッサージ院で働いていました。

西成区の岸里でアパート暮らしを始める

勤務して約10日ぐらいたった時、西成区の岸里と言う所のアパートを探しました。
実はこの年、妻の妹も高校を卒業して大阪の整骨学校へ行く事になっていました。
私が行く学校と妹が行く学校は、まったく方向違いで、どちらの学校へも行きやすい場所をと思い岸里のアパートを探しました。
アパートは、二階建てのアパートで、六畳と四畳半のふたまで、三畳ぐらいの台所とトイレが付いていました。
お風呂は無く、銭湯に行っていました。
家賃は一ヶ月、一万九千円でした。驚いたのは、敷金が40万円だったことです。
九州地区や山口県は、どこでもアパートの敷金は、家賃の三ヶ月分と言うのが常識です。
でも、さすがに大阪は大都会、家賃の20ヶ月分というのが当時は、常識でした。
アパートの敷金は、嬉野の父が出してくれました。
アパートが見つかり、妻と長男、そして妻の妹が大阪に出てきました。
奥の六畳の部屋は、妹が使い、手前の四畳半は、私達親子三人で使いました。

一軒、一軒、祈る様な思いでチラシを入れて歩きました

整骨学校は昼の部と夜の部の二つのコースがあり、私は、昼の部に行きました。
妹は、昼は鍼灸科に行き、夜は整骨科に行きました。
私は、アパートの近くのマッサージ院を探しましたが、あいにく住宅地の為に人をやとって営業しているお店はなく、働くところがありませんでした。
かといって中心部で働くと帰りの電車がなく、タクシーに乗って帰ると、赤字になってしまいます。
しかたなく、一人で開業する事にしました。
早速不動産屋に行き、電話を買いました。
次に印刷屋に行きチラシを作りました。
そして、妻と長男と三人で、アパートやマンションの郵便受けにチラシを入れて歩きました。
一軒、一軒、祈る様な思いでチラシを入れて歩きました。
幸い、近くにマッサージの出前をする所が無く、重宝がられてマッサージの注文も少しづつ増えてきました。

毎月お金が足りず、家計は火の車

昼は学校、夜は出前のマッサージと一生懸命に頑張りました。
ところが、学校は、春休み、夏休み、冬休みと長期休暇があります。
この休みの時は、嬉野に帰らないといけませんでした。
特に、夏休みなどは40日以上もあり、折角お得意様ができても、帰った時には、またゼロからのスタートで仕事のない日々が続きました。
整骨院の学校は、視覚障害者を対象にした学校では無く、健常者を対象にした学校ですので、大変苦労しました。
教科書もテストも普通の字が書いてあります。
私は小学校、中学校と普通の学校へ行ったのですが、まったく勉強ができず、文字の読み書きができませんでした。
でも、小学校も中学校も義務教育ですので、とにかく学校へ行っておきさえすれば卒業だけはできます。
ところが整骨学校は国家試験があり、たとえ卒業しても国家試験に合格しなければ免許をを貰う事ができず、とても大変な思いをしました。
妻が、教科書をテープに録音して、通学中の電車の中で聞いていました。
夜は、妻が私の家庭教師で、妻から勉強を教えてもらっていました。
こうして、妻の協力のお陰で無事国家試験に合格する事ができました。
学校の方は、何とかなったのですが、仕事の方がなかなか増えずに、毎月お金が足りず、家計のやりくりが大変でした。

海苔を売ろうと思いつく

私は、何とかお金をかせぎたいと思い、実家の母に頼み、海苔を大量に仕入れました。
山口県は瀬戸内海に面し、海苔の産地でもありとても美味しい海苔がとれます。
部屋の中は、海苔の入ったダンボールが山積みです。
海苔を仕入れる資金は、母に立て替えてもらいました。
私は、海苔を売って、この厳しい財政を立て直したいとおもいました。
ところが、今まで物を売った事がなく、どのようにしたらよいかまったくわかりませんでした。
いろいろ、考えた結果、スーパーの前で海苔を販売する事にしました。
幸い、スーパーの前のたばこ屋さんが場所を提供してくださり、海苔の販売をしました。
小さな七輪の上で海苔を焼いて、通行人に試食して頂き買ってもらいました。
少しは売れたのですが、仕入れた量が多すぎて、いっこうに海苔がへりません。
私は何とかしたいとあせるのですが、なかなか売れません。
当然です。
商店街に買い物にくる人は、一般家庭の奥様ばかりで、そんなに沢山の海苔は必要ありません。

大量に仕入れた海苔を売るために

私は、海苔を大量に使う所はどんな所があるかと考えました。
そして、答えがでました。海苔を大量につかう所は寿司屋さんだ、と言う事に気付きました。
早速、周辺のすし屋さんを一軒、一軒尋ねて行きました。

これは、山口県でとれた美味しい海苔です。
沢山、仕入れすぎて困っています。
どうか、この海苔を買ってください。

と、お願いしました。
初めに飛び込んだすし屋さんでは、あっさりことわられました。
次に行った所も断られました。
三件目に飛び込んだすし屋さんは、買ってくださいました。
実は、私達親子三人で、七輪を囲んで海苔を売っている姿を見ておられ、かわいそうと思われたのでしょう。
沢山買ってくださいました。
また、知り合いのすし屋さんを紹介してくださり、山の様にあった海苔も少しづつ減っていつの間にか、なくなりました。
そして、母に立て替えてもらっていた海苔の代金をはらう事ができました。
こんな、いきさつで海苔売りが終わりました。

人様のやさしさ、ぬくもり

正直言って、海苔売りは、あまり儲かりませんでした。
でも、露天での海苔売りあきないは、とても勉強になりました。
そして、人様のやさしさ、ぬくもりを感じる事ができました。
昭和48年3月、無事、整骨学校を卒業して、針のむしろの嬉野町へ帰ってきました。

夜逃げをして、三年半が経過していました。

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