岸川美好物語

岸川美好物語 第五章 初めての独立

経営者として新たな一歩を踏み出しました

毎日毎日、ゼロの日が続きました

駆け落ち、夜逃げと二度の家出の結果、ようやく子供のころからの夢であった、経営者「社長」になる事ができました。
六畳の畳の部屋を板の間に改造して、私だけの小さな治療室が完成しました。
看板も、立派なトタンの看板を作り、受け入れの準備ができました。
後は、お客様が来てくれれば、何も言う事はありません。
ところが、さっぱりお客様は来てくれません。
毎日毎日、ゼロの日が続きました。
もともと、お金があっての開業ではなく、母からの援助でのスタートですので、通帳はゼロ円です。
妻は、厳しい財政の中でやりくりしてくれていました。
私は、何とかしたいとあせるのですが、いっこうにお客様が来てくれる様子はありませんでした。
妻は、二度も親を裏切り、私について来てくれたのに、こんどはお金がないと言う経済的な苦しみを味わっていました。

ポンコツの軽自動車

そんなある日、中学校時代の同級生が、たずねてきました。
用件は、ポンコツの軽自動車があるがいらないかと言う話でした。
私は、いちもにもなく、くださいと言いました。
翌日、同級生は、ポンコツの軽自動車を持ってきてくれました。
そして、駐車場に止めてもらいました。
私はもらった車を遠くからまた、近くから毎日眺めていました。
時には車に乗りハンドルを握り、いかにも自分が運転をしている様な気分でいました。
車をもらって、一週間後、ある事を思いつきました。
それは、出前のマッサージをする事でした。
今まで、お客様に来てもらう事しか考えていませんでしたが、ポンコツの軽自動車をもらった事で、発想の転換ができました。
実は、同級生の人からポンコツの車があるが、君がいれば持って来てやるがいらなかったら、廃車にすると言われました。
私は、特にその車を、どうしようとかまったく思わず、瞬間的にくださいと言いました。
こんないきさつでもらった車がきっかけとなり、出前マッサージをする事になりました。

目の前には、宝の山

すぐに、行動開始です。
まず電話帳を開き、市内の旅館を一軒、一軒、電話をしました。
旅館でのマッサージの現状をしる為の電話でした。
すると以外な事実がわかりました。
それは、どこの旅館でも同じ返事でした。
「お客様よりマッサージの注文があるのですが、どこに電話をしてもマッサージさんが来てくれません」と言う返事でした。
私は直感的に思いました。

この出前マッサージをうまくやれば、独占企業になれる。

そして、この厳しい状況を変化させる事が出来ると思いました。
目の前には、宝の山があります。
この宝の山を掘って、宝物を手にしなければなりません。
次の作戦は、マッサージスタッフの募集です。
出前マッサージは、同じ時間帯に注文が集中します。
たとえ私一人が頑張っても、いっぺんに二人をもむ事はできません。
最低でも、五・六人のスタッフは必要です。
私は、盲学校時代の友人に頼んでマッサージ師を探してもらいました。
ところが、実績もなく、しかもお金も持たない私のところへ来てくれる人は、だれ一人としていなく、計画は立ち往生しました。

ある閃き

そんなある日、一つの閃きがありました。
それは、市内で開業しているマッサージ院の経営者に頼んで手伝ってもらうことでした。
きっと、私と同じ様に、看板は上げていてもお客様が来てくれず暇な人がこの町にもいると思いました。
早速、電話帳を広げて市内のマッサージ院にかたっぱしに電話をかけました。

私は、岸川と申します。
この度、市内で出前のマッサージをはじめます。
人手がたりませんので、もし、よろしかったらお手伝いいただけないでしょうか。
時間は、一日一時間でも二時間でも結構です。
もし、お手伝いいただけるのであれば、私の方で車でお迎えにあがります。

この様な内容の電話をしました。
すると、以外な事に八名のマッサージ師の人が手伝ってもいいと言ってくれました。
これで、仕事先もマッサージスタッフもそろい、出前マッサージの計画が実現しました。

障害に出会った時、発想の転換をすれば、きっと打開策がある

仕事が無く悩んでいる時に、中学校時代の同級生が一台のポンコツ車を持ってきてくれて、私にきっかけをくれました。
そのお陰で、出前マッサージを思いつき、厳しい状況を変化する事ができました。
おそらく、神様が私達を助けてやろうと思い、同級生を通じて、ヒントをくれたのではと思っております。
ちなみに、その時のポンコツ車は、一ヶ月もせずに動かなくなり廃車にしました。
私が、この体験で学んだ事は、一生懸命にやっていれば、必ず、誰かが助けに来てくれると言う事を体験的に学びました。
そして、壁に出会った時、障害に出会った時、発想の転換をすれば、きっと打開策があると言う事を、この、出前マッサージで学びました。
こうして、私の初めての事業は順調に進みました。
そして、夜逃げから、二年が経過しました。

一日も遅く帰りたい

そんな、ある日、妻の父から電話がありました。
内容は、大阪の整骨学校へいかないかと言う電話でした。
私はすぐに断ろうと思いましたが、よく考えて見ますと、整骨学校にいくとある利点がありました。
それは、二年前に家出をして、妻の両親と約束した事の期限があと一年できれると言う事です。
当時の整骨学校は、二年で免許を取る事ができました(現在は、三年間)。
しかも、大阪より東の地区にしか学校が無く、もし、整骨の学校へ行くとすれば大阪へ行く事になります。
もともと勉強が好きな方ではありませんので、学校へ行くのはあまり好みではありませんでしたが、一つだけ魅力がありました。
それは、嬉野へ帰る日が一年遅くなると言う単純な理由でした。
二年前に、三年たったら、嬉野に帰ってくると妻の両親に約束しており、あと一年で期限がきれてしまい、嬉野へ帰らないといけないからです。
その頃の嬉野は、私にとって針のむしろにすわらされているような思いで、一日も遅く帰りたいと思っていました。
もし整骨学校へ行けば、一年遅く帰れると言うそんな単純な理由です。
こんなふまじめな思いで大阪の整骨学校へ行く決心をしました。
早速、整骨院の学校へ電話をかけて願書を取り寄せました。

無事、整骨学校に入学

願書を見ますと、大きな障害がありました。
それは、整骨学校の入学資格の事です。
当時の整骨学校に入学するには、高校を卒業しておかないと入学できませんでした。
ところが、私がいった盲学校は、マッサージの資格をとる為のコースで、高校卒業とは認められず、中卒あつかいになっていました。
私は、何とかして、整骨学校へ入学したいと想い、学校へお願いしました。
すると、整骨学校はある方法を教えてくれました。
それは、高校卒業と同等の学力があると認められた証明書を提出したら、受験させると言うありがたい返事でした。
私は、光明寮の事務長さんにお願いして、証明書を発行してもらいました。
光明寮もこんな証明書を発行するのは初めての事で、とまどいがあった様ですが、なんとか私の想いを理解してくださり、高卒と同等の学力があるという証明書を発行してくれました。
お陰で入学試験を受ける事ができ、無事、整骨学校に入学できました。
実はこの頃は整骨学校へ行く人が少なく、定員に満ない状況でした。
ですから学校の方も何とか入れたいとの想いで便宜をはかってくれたようです。
ちなみに、翌年は整骨学校がブームになり、競争率も二倍以上となり狭き門になりました。
もし、翌年に受験していたら、とうてい入学はできなかったと思います。
まず、入学試験も受けることすらできなかったとおもいます。
とにかく、何とか、入る事ができました。
こんな、理由で大阪へ行きました。

貴重な体験でした

二年前、一台のポンコツ車がきっかけとなり始めた出前マッサージともお別れをする事になりました。
折角、基礎が出来て軌道にのったのですが、続ける事ができず、解散する事になりました。
でも、この時の体験は、後日、大変役に立ちました。

次ページ→第六章 整骨学校の入学


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