岸川美好物語

岸川美好物語 第一章 障害に泣いた子供時代

同級生には馬鹿にされ、先生には無視され、いつもいじめの的に

道楽者で母に暴力をふるっていた父親

私は、昭和23年山口県の宇部市で生まれました。
子供のころから視力に障害があり、いつも、できないやれないと言い訳ばかり言っている子供でした。
父は炭鉱関係の仕事をしており、しかも宇部市の市会議員もしており、いつも背広を着てお抱え運転手がいました。
母は、いつももんぺをはいて、百姓と小さな旅館をしていました。
父は道楽者で、何人ものお妾さんを囲い、めったに家には帰って来ませんでした。
たまに帰って来ると、母に金をせびり、お金を出さないと殴る蹴るの暴力をふるい、時には日本刀を振り回し母を脅していました。
私は、子供心に、「こんなやつ死んでしまえばよい」と父を憎んでいました。
その為に、母は傷だらけで、いつも泣いていました。
母は働き者の女性で、一年中休む暇なく働いていました。

 

岸川美好の幼少期

幼少期

 

母は何度も私をみちづれに線路に飛び込もうと思った

こんな、憎い父ではありましたが、子供心に父親を慕う心もあり、自分も大きくなったら父の様に社長になりたいと思っていました。
ですから、そのころ、大人の人から「大きくなったらなんになりたいか」と聞かれたら、すぐに「社長になる」と答えていました。
そんな、私が、障害にきづいたのは、六歳の時です。
生まれて初めての健康診断で、眼科医から重度の視力障害があると診断されました。
それまで、少しは見えていましたので、私も両親も障害があるとは夢にも思いませんでした。
病名は、「青そこひ」。
近い将来必ず失明するとの無常な宣告でした。
母は大きなショックを受け、何度も私をみちづれに線路に飛び込もうと思ったそうです。
でも、幼い私の顔を見て思いとどまったそうです。
母は何とか私の目を直してやりたいと思い、上手な眼科があると聞けばどこまででも私をつれて行ってくれました。

ところが、どこの眼科へ行っても答えは同じ

この目は、治す事はできません、将来必ず失明します

と太鼓判を押されました。

 

母の想いも実らず、私の目は悪くなるばかり

母は医学で駄目なら神仏へ頼ろうと思い、いろんなお寺や神社にお参りに行きました。
特に目の病気にご利益があると言われております島根県の一畑薬師様へお参りして、修行をしました。
修行もなまはんかなものではありません。
深夜、本道の周りをはだしで、お百度参りをします。
島根県は裏日本でとても寒く雪の多い地区で、真冬の深夜の石畳は、はだしにはとても辛い修行でした。
母に手を引かれ、約3時間、裸足でお百度参りをしました。
奥の院では、真冬の深夜、日本海の海に身を沈め、長い時間お祈りしました。
また、真冬の滝に長い時間入り、一心不乱にお祈りしました。
でも、こんな母の想いも実らず、私の目は悪くなるばかりでした。
母は、冷たい海中での修行や滝修行で身体を痛め、リュウマチになり、六十才の時には不自由な身体になりました。

 

同級生には馬鹿にされ、先生には無視され、いつもいじめの的に

七歳の時、小学校へ入学しました。
私が、行った学校は、見初小学校と言う学校で、私の家から約15分ぐらいの所にありました。
実は、見初小学校に入学する時、市役所の福祉課の人が盲学校への入学を勧めていました。
ところが私は、盲学校の様な目の見えない人ばかりいる学校には行きたくないと言って、盲学校への入学を拒んでいました。
盲学校は、ひと県に一校しかなく、山口県は下関にしかありません。
母も、幼い私を遠くへやりたくないとの想いで無理を承知で普通の人の行く小学校へ入学させました。
小学校での私の机は一番前にありましたが、黒板の字もまったく見えず教科書もテストの文字も見る事ができず、答案用紙はいつも白紙で提出していました。
ですから学業成績も悪く、やる気も元気もまったくありませんでした。
同級生には馬鹿にされ、先生には無視され、目が悪い事で、いつもいじめの的にされていました。

 

国語 1・数学 1・社会 1・音楽 1・体育 1 。成績はいつもオール1

昭和35年4月、中学校へ入学しました。

中学校は、神原中学校という、全国でも最も生徒数の多い学校で、一クラスの生徒数55名、一学年のクラス23クラス、一学年の生徒数1300名と言うマンモス中学校でした。
私の机は一番前にありましたが、勿論黒板の字も教科書の文字も見えず、まったく勉強はできませんでした。
ですから、中学一年生の時から三年生まで、成績はいつも、国語 1・数学 1・社会 1・音楽 1・体育 1 と全ての教科がオール1と悲惨な成績で、中学一年の時から三年まで、成績は、1300人中、1300番でした。
その頃の私の心は、やる気も根気もなく目の悪い子供を生んだ両親や社会を恨み、心も荒み、自分なんか生まれてこなければよかったと思っていました。
こんな生徒でも、中学校までは義務教育ですので、学校へ行っておれば卒業はできます。
私も、他の同級生と同様に卒業の時期がきました。
そして、進路を決める三者面談がありました。
担任の先生より、これからの進路は、どうするかとの質問がありました。
私は他の人と同様に高校へ行きたいといいました。担任の先生は、絶対に無理だからやめとけと言いました。
でも、私は、無理とは思いましたが、ほかの同級生と同じ事がやってみたいと想い、高校の受験をしました。
当時は、約七割の人が高校受験をしており、三割の人が就職をしていました。

 

私が行ける所は、盲学校しかなかった

いよいよ入試の日、私にも答案用紙がくばられました。

私は、一問でも答えを書きたいと思い答案用紙を目に近づけるのですが、残念ながら私の目では見る事が出来ず、結局一問も答えを書く事ができなくて白紙で提出し、高校受験は失敗に終わりました。
この瞬間、私の行く所は一つしか残ってはいませんでした。
それは、小学校へ入る時、市役所の人が進めた盲学校への入学です。
その時は、ぜったいにいやと言って断ったのですが、今は断る事は出来ませんでした。
なぜなら、今私が行ける所は、盲学校しかなかったからです。
私は仕方なしに父親につれられ、盲学校の入学試験を受けに行きました。
ところが私の能力では、盲学校のレベルにもついていく事ができず、もう一度中学三年生をやる事になりました。
そして、盲学校の寄宿舎に入りました。
盲学校の入学式の日、校長先生が私にこの様なことを言われました。

今君は、この学校へ入学して落ち込んでいると思う。

でも、あと一週間もすれば本当に良かったと思うはずだ

と言われました。

私はその時、その言葉の意味がわかりませんでした。
でも、一週間後にその意味がわかりました。

 

被害者意識から感謝の心への変化

小さいころから、いやでいやでたまらなかった盲学校での生活は、今までと180度違った環境でした。
それは、今まで行っていた学校は自分以外の人は全て、健常者です。
ところが盲学校では、自分を含めて全ての生徒が、障害者です。
盲学校へ入って驚いたのは、光も影もまったく見えない、色もまったくわからないと言う人が沢山いる事を知り、自分の障害の軽い事を改めて知る事が出来ました。
それまで、自分が世界一不幸だと思っていた心が急に消えて、自分は恵まれていると思える様になっていきました。
しかも、生まれたときからまったく光も影も見た事のないと言う人がとても明るく、しかも勉強もよくでき、成績も私よりはるかによく、生き生きとしている姿を見たときに、今まで自分が障害に負けていた事が恥ずかしく思える様になりました。
盲学校へ入り、私の心は被害者意識から感謝の心へ変化していきました。
不思議な事に、心が変わると今までわからなかった勉強も少しずつわかる様になってきました。
また、身体も少しづつ動く様になり、走れる様になりました。

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